昭和42年6月2日 夜の御理解
神様は素晴らしい演出から始まるのですから、その神様の御演出に、え~、私共が上げらされる、いわゆる、んん、神様の御演出にお互いがそれぞれの持ち場立場で、え~上げらされてこそ初めて神様の願いが叶うていく、「もうどうしてじゃろうか」ということはない、今私が親教会でちょっと心が暗うなるようなことがあったんだけれども、自分のお粗末からかな、御無礼からかなとこう思ったけれど、神様にお願いさして頂いたら「神の演出」ということを頂いた、して見るとははぁ私が思い当たる事いくらもある、なるほどとこう思う事があるんです、だからその演出っ、「どうしてそんなことを言うたり、思うたり、そういうことになるじゃろうか」というところには、混じってないわけ、だから神様の演出ということが分かるところに本気でその、言わば、に演技というものをこちらが、演じようという努力というものが出けてくる、特に教会内の家族の者、または、これは教会内の者だけではない、お道の信心を頂いておる者が、どうあらなければならないかというところには、確かにこれは神様が演出なさるだけではなくて、私共自身もやはり演出は必要である、特に教会内の者は、特にその演出を、を心掛けなければならない、というのが、例えばある教会の(「総代さん方に急に入るけんで早よ切らんの」「ほれきょう、(?)といかんから」?)と言うてその人にそういう風に思われたくないから、そういう風に演出すると、というのはこれはどっちもおかげ頂かれんけれども、そこへにね、私が今日言う演出は、例えばお道の信心を頂いておる者はこうあるべきだと、教会内におかげを頂いておる者は、教会の家族の者はこげんあるべきだと、いうことをいつも焦点においておかげ頂いていかにゃならんから、少しは信心の無い者と違わなければならん、(?)の信心がおっても、教会家族の者、いわゆる直接神様におまかないを頂いておる者は、そげんところを大変大事にしていかなければいけない、私はそう思うんですね。
只今あの、(?)へ、え~、(?)を申し上げる時に、あそこに、一番下の右の端に、網の綱がしてある、網のこつの、上に白っぽいのが一番上にあったから、こちらから見ると後ろが白木ばかりだから、盛っとるようか分からんごとある、ね一番上に私が、あぁ紫色のあれを乗せたから、はぁあのお三方はあそこが頂点だなということが分かるでしょうが、ね、これなんかは、まあ言わば、演出なんです、ね、お供え物もせっかく頂いたお供え物を、ね、真心込めて盛り上げてどいい、例えばお供えなさった方が見ても、または皆が見ても感覚的にです、有り難い雰囲気とか素晴らしい雰囲気というのが出なければ駄目、と言うてこう飾り立てろというのじゃない、ちょっとした心掛けなんです、ね、そん時はもうバリバリおいさみがあったでしょうが、私があの、あれをする、と私が即ここに思うたから、それをした時にです、そういうちょっとした心掛けが大事なのだ、これはあの、もう(?)の(?)だったかねあの、少年少女会の方達があの大祭の時に下駄を預かるのに、人に対して(?)の下駄に、あの、ただあ~、下駄を預かるということをですねちょっと私は申したけれども、相手が例えば有り難う思いなさるような扱い方でばにゃいかんとことであった、ね、下駄を、「あ~本当に若い、若い方達がこうやって私共の下駄まで扱うて頂いてどうもすいません」と、ともうその、下駄を預ける人が思うような、いわゆる扱い方をしなければいけないということであった、ね、ただ下駄を預かっておるというだけじゃいかん、あっ、有り難う思いなさるような、特にここに( ? )、有り難う思いなさるような演出がいるということ、また有り難う思いなさるような、いわゆる心行きが必要であるということ、この頃の私には、ここ九時からの御祈念上げよっても、それまでは御結界だけしかない、内殿だけしかお明かり入ってないけれども、九時半に、八時半になったらお明かりをつけなさい、廊下もつけなさい、あの正面玄関の所も、もつけなさい、え~お初穂の整理するところもつけなさい、これは言うならばお参りをしてきた人が暗~うしとるというところに参ってくるよりもですね、もう(?)の御祈念にとこう、例えば心早めに参ってくる人達の場合なんかのことを考えてそれを演出しとかなければいけない、下駄も奇麗にはしっ、しとかにゃ、「はあもういつ来たってここだけは、もう下駄だけはきちっと並べてある、やっぱり信心の教会」いわゆる教会、なるほど教会の(?)というものがなからにゃいかん、手にわけ汚い所というので、便所なんかは、もうそれが、それが見せるためにそうじゃないけれど、そうさしてもらわなきゃおられないのだけれども、やはり一つの演出なのだ、それがうんならただそのお客さんが気持ちようなさるだけっちいうのじゃなくてです、本当にお客さんがです、有り難うなるけん来る所なのだから、お客さんってご信者さんが、ね、いわゆる有り難う思いなさる思いよいように演出しとかなければいけないということ、特にだからこの照明なんかもこういう様々な照明がいっぱいついとりますから、なんとはなしに、あの、素晴らしい有り難くなれれるような演出、夕方なんか、(?)(?)の教会例えば、御広前がまあ(?)として、御結界もまあ座ってないというような状態だけれども、御神灯が一つ入って、御結界にお明かりが入って、他ん所はどげん暗かっても、薄暗かってもかまわん、ここにお明かりが一つ入って一生懸命奉仕をしておる姿なんか、とにかくもし参り合わせし人、人がですね、とても有り難いと思わんはずがないです、それ(?)明かりをつけておったら、お参りもなんも(?)可笑しいぐらいなこと、とにかくここの神様の前にいわゆる(?)に神前奉仕をしておる、神前奉仕をしておる所だけが、明々と明かりが入って一生懸命奉仕をしておるということ、これはもう一時が万事のことに言えると思う、今日私、鯉に餌をやろうと思うて、その、しよるところ、袋を破ってしてらいっぱい零れた、それを私が奇麗にこう拾うて、あのなんとか紙袋にこう入れさして頂いた、もしあれがどうだろう、それはなるほど金にすりゃあもう安いもんだけれども、それがこう散らかっておっては、そこに来合わせた人が、もう本当に良い気持ちがあるはずない、それがもし自分のお供えでもしとるものであったら、まあお粗末、こげなんお粗末になりよるということになってくるのでる、もうお供えさして頂いてお餌の一本一本が、例えばこんなに大事にして使われておるという時にです、「はぁお供えさして頂いて良かった」という、有り難いものが生まれてくるのである、これなんかは(?)演出なのである、どうでもだからいかんなら、もう早く目につかんようにちょっともうお詫びをさして頂いて捨てるなり、せにゃいかんのである、それはもう、腐ってもうあそこへんにこう、散らかしてあるといったようなことでは、あまりにもしんきが無さすぎるということ、ね、これは信者としての、お~やっぱこうあるべきだ、とは、信心しておかげ頂けるじゃろうかじゃなくてから、いわゆる、誰も合楽の金光様の信者として見とるのであるから、そこんところを信者として、可笑しゅうないようなあり方、ね、言い方、思い方になっていかなきゃならんと同時に、とりわけ教会内の者はそうなのである、特にここんところを例えば、信者さんに見せて、見せるためだけのものであってはならない、有り難く思いなさることのために、まず自分が有り難くそれが出来ることにならなきゃいけない、そしてそうしたいわゆる神権に行き届いた、演出が出けれて初めて、教会の素晴らしい雰囲気というものが生まれてくる、もう教会のカッテの方へ行ったらもう、返って普通の家庭よりもお粗末に散らかしてあるというきであったら、もうそれは演出する心は無いわけなんです、ね、だからそういう意味合いにおいて、演出が大事だ、もう神様は素晴らしき演出家、であると同時に、私共もその神様の演出に、私共がついて踊っていくだけのおかげを頂かなければならん、ためになら私共の者も、信心さして頂く者も、やはり素晴らしき演出家に、特に教会内におまかないを頂いておる者はなおさらの演出がいる、というのは、演出の中からです、いわゆるご信者さん方がそれに、まのあす、踊らされる、なんて教会のまどおしにならんというようなあり方になってくる時にです、いわゆる演出効果というものがあるわけなんです、例えばお供え物一つの上にでも、どうしてろくそなそのお供えの仕方であろうかと思うただけでおかげを受けられない、いつ来てもきち~んとお供え物が奇麗に出けておる、人間は感覚を持っておるから、はぁ素晴らしいなぁと思うただけでもうおかげを受けるのである、ね、そのためにはなら、しきさい一つの上にでも、例えば私が今お供え物をちょっとこう取り替えただけで、その感覚が変ってくるように、そういう神経をいつも使うとかなければならない、しかもそれが信心でなされなければならないというところにです、これがもし形だけに終わったらもう本当に堕落ね、信心の堕落、いわゆる生きた働き、生きた宗教、生きたものを持たない宗教は、もういてしてその形だけに止まってしまう、「(?)もこげんしとかにゃんもんだ」と、「宣教師というものはこげなんしとかにゃならん」と言うて例えばなら、衣を着ておっても、どういうあの~、正常な衣服を身に纏うておっても、内容がなかったら、それは生きたものがな~んにもともならない、ですからなるほど私がここでは、他所では知らんけれども、ここでは私が言うん、「ここで御用さして頂く者は、いつも出来るだけ紋付きハギを付けとりなさいよ」と、ね、自分が神様を迎えす、ためにも向かえれるし、またなら皆が、ここへお参りをしてきた人達が、感覚的にその、教会の方だと、ここで修行なさっておる方達だということがです、これはもう本当に、かいけんしゃどん着てからいつもここで御用しとっただけではいかん、それはなるほど、でなからなければ出来ない御用をする時にまた別なんです、それは裸でも緩慢、裸ででも緩慢、なのだけれども、そういうような心掛けを持たして頂くことが、私はいわゆる「信心になれよ」とおっしゃる、いわゆる信者としての信心、教会人としての信心、そこに私はその、神様の御演出とあいまって、私共の演出と言うかその演出に、いよいよ、より沢山の人が有り難いなぁというものを、受けて感じても帰るだろう、それがおかげになると思うですね。 どうぞ。